チベット高僧とのコラボレーションブランドamanamana(アマナマナ)のプロデュースやチベットの心の知恵や癒しの発信、東京・西麻布のシンギングボウル・サロンにて各種講座等の企画・運営。3男児の母。チベットやアマナマナの情報を綴っています。
幸せとは、何でしょう
ついに今週末の24日は、
杉並公会堂で、
今年に入って始めた、
合唱団の演奏会です
個人的には、
長いブランクの後なのですが、
合唱団が35周年を迎えるので、
今年はバッハの大曲中の大曲、
マタイ受難曲。
この半年はドイツ語と、
譜読みと、キリスト教やその時代、
そして、バッハの勉強にずい分、
プライベートの時間を
費やしました
先週末はオーケストラと
リハーサルでしたが、
金曜日にもリハを重ねて、
当日はソリストも交えて、
約3時間かけて歌います
とにかく、辞書のように
楽譜が厚くて、細かいので、
人生初のリーディンググラス
(要は老眼鏡)も購入👓
裸眼よりも
劇的に見やすくて、
感動です(笑)
さて、
このマタイ受難曲を歌うにあたり、
それぞれの章や部分が、
どのような意味を持ち、
どのように歌ったらよいか、
色々知るにつれ、
宗教の目的であり、
そして、人の目的は、
たった一つ。
幸せになること
に尽きるのだなと
改めてかみしめています。
何をもって幸せか、は
人によって細かい部分では
違いがあると思いますが、
人生に起こるすべての先は
誰もが同じ、
幸せになること、
なのですね・・・
幸せになるためには、
心身ともに満たされる必要が
ありますが、
身体が苦痛でも、心が満足ならば、
心が苦しくて体が満足な状態よりも
幸せ度は圧倒的に高い、つまり、
最も大切なのが、心の満足。
と言えます。
そして、
その心の満足をもたらすものは、
何かというと、
希望、愛、平和
・・・などさまざまな
要素が出てくると思います。
私は最後に卒業した学校が
カソリック系でしたのに、
当時のお勉強が、
まったく身に入っておらず
今回のバッハを通じて、
改めて学び直しました。
キリスト教における、
「愛」というものは、
キリストが十字架に
自らかかった、
つまり、
究極の愛ゆえに、
人々の痛み、罪をすべて
キリスト一人が引き受け、
人をゆるし、死に至った
(そして、後日、復活)
という部分なのですね。
マタイ受難曲の中には、
最後の晩餐も、そして、
最愛の弟子たちによる
裏切りも、ウソもすべて、
描かれています。
バッハ先生の
天才的な音の運びと構造も
加わって、
この“愛ゆえ”の
キリストの受難の苦しみと
愛の行いが尊過ぎて・・・
いまだに、
イエスの悲しみや落ち込み、
天に召されるシーンなど
心に触れる場面は、
泣きながら歌っています。
(本番では泣いていられませんが!)
そして、
普段、自分のことだけで、
もう精一杯な人の方が
圧倒的に多く、苦しみや
困難に満ちたこの世の中で、
自ら進んで人の心の痛み、
人の罪な行い(ウソ、盗み、殺し等)
を受け止め、それでも
許することができることが、
しかも、
自分の命が断たれる
という究極の選択が
できることが、
どれだけその人
(キリスト教ではイエス)の
心が鍛えられており、
(チベットではトンレン)
しかも、
心がしなやかで
強靭であるかをジワジワと
確信させます。
だからイエスは、
神の子であり、ユダヤの
王だったのですが・・・
もちろん、
自分の思いやりややさしさ、
受難だけでは、他人の癒しや
幸せにならないことも
あるでしょう。
それでも。
世界70億人の中の、
たった一人のこころが
それで慰められ、救われ、
希望が持てたのなら、
それが本当の愛で、
幸せに向かう道なのだ、
と思えたことが、
今回の一番の学びで
喜びです。
幸せと愛を求めるより、
自分から、人に
その気持ちを差し出せる
余裕と強さと喜び
その絶対的な存在感に
また今日も練習しながら、
泣いています。
(本番までには泣かないように
ガンバリマス。あと5日ですが…)
やはり、愛は最強ですね。
・・・ということで、
どっぷりマタイに浸かった
週末の独り言から
また仕事に戻ります
もしお時間がある方は、
過去に書いたマタイ受難曲がらみの
記事はこちらです。
2017/05/23 バッハと愛ゆえに、の週末
2017/03/16 倍音をより美しく響かせる方法
2017/03/17 続・倍音をより美しく響かせる方法
2017/03/06 歌うこと、しかも宗教曲。
演奏会情報はこちらです
お時間がある方は、ぜひ
いよいよ夏至ですね
皆さまステキな一日を!
まだ間に合います
バッハと愛ゆえに、の週末
先週末、スタッフ勝村と、
シンギングボウル講師の高橋が
大阪でのシンギングボウル講座に
出張中、
私は八王子の野猿峠にある、
八王子セミナーハウスで、
今、コーラスメンバーとして
所属している、
バッハ研究会合唱団の
来月の演奏会前の合宿に
参加しておりました~
このセミナーハウス、
本館は、こんな逆四角錘で、
不思議な建物なんですが、
昔、ウルトラマンのロケで、
司令塔として登場したという、
そんな過去もあるそうです(笑)
週末は夏のようなお天気で、
もうダイニングルームからの
丹沢方面の眺めも最高✨
こんな素晴らしい環境で、
2日間、来月演奏会で披露する、
マタイ受難曲をみっちり
朝から晩まで歌い込みました。
バッハという作曲家は、
日本の教科書には
「音楽の父」
と書かれています。
ダビンチもそうでしたが、
バッハ先生は自分の作品に、
人知れず、様々なモチーフや
トリック、メッセージを
そっと込めたようで・・・
歌っていても、
え?そこで、なぜその差し音?
そこで、なぜ通奏低音が消える?
そこ、なぜ左右対称の展開?
使徒の固有名詞が、
なぜわざわざ代名詞に?
・・・など、
指揮者のM先生が
練習時に楽譜の解釈も
してくださるのですが、
まだまだ謎があるようで、
ワクワクします。
そこから、
音符の羅列が様々な解釈が
生まれてはストーリーが広がり、
音楽の楽しみが広がるのですね。
バッハ先生、
素晴らしすぎます!
実はバッハが200曲以上書いた
教会カンタータや受難曲は、
初稿の行方が分からなくなり、
後々になってから、
さまざまな楽譜や記録をもとに
校正されたものも多いようで、
マタイ受難曲もその一つです。
内容は、聖書に基づいて、
キリストがゴルゴダの丘を
十字架を担いで登るシーンから始まり、
ユダの裏切り、最後の晩餐、
使徒たちの逃避、そして、
磔ののちの死、などが
物語的に歌われます。
音楽のチカラで、
物語をここまで立体的にする
バッハの技術と才能に
泣けてきそうなほど。
個人的には、弟子たちが
この最後の晩餐の準備を
進める箇所が、なんとも
ほのぼのしていて癒されます(笑)
ところで、普段、私は
チベットの高僧から学んだ
様々な言葉やエピソードを
ご紹介していますが、
今回、ヨハネ受難曲を
歌いながら読み込んで
感じたことは、
あらためて、
ダライラマ法王が
著書「幸福論」でも
おっしゃっていたことで、
先ほど本を改めて
開いてみて、その部分を
かみしめています。
それは、
すべての宗教の目的は、
人々に愛や思いやり、
忍耐、寛容さ、謙虚さなどを
培う手伝いをすることであり、
それを実行に移すことで、
初めてそれらを得て、
問題解決ができる、
という部分です。
つまり、心の中にある
温かい感情に従って、
困難の中でも生きなさい、
その救いとなる役割を
担うのが宗教でもある、
ということですね。
それは、どの宗教も
一致している、と、
法王さまは本の中で
おっしゃいます。
バッハは宗教改革者ルターの
影響を強く受けており、
プロテスタント系ですが、
その聖書や音楽の一部が、
ナチス・ドイツによって
間違った解釈で
引用されたことで、
ユダヤ人を大虐殺した
ホロコーストを起こした、
とも言われています。
しかし、
マタイ受難曲には何度も、
「愛ゆえに」
(独:Aus Liebe アウスリーベ)
という言葉が登場します。
そして、
仏教にとても近い心と
感情と行いの在り方の
くだりもありまして、
その旋律の美しさに、
涙がウルウルと出てきて
しまいそうなほどです。
(はい、讃美歌の目的に
ど真ん中でハマる人です>自分)
そんな愛の音楽がなぜ、
人に苦痛を与え、
悲しみと怒りを増幅する
歴史を生むきっかけとなったのか。
本当に人間の複雑怪奇さ、
闇の深さを感じないでは、
居られません。
でも、
闇が深いから、
光は輝く
のですね。
そして、人間には、
どちらも欠かせない学びの
存在なのですね。
そんな二つの存在を、
まず私たちが理解して、
受け入れる。
二つの側面を持つ自分も、
深く愛せることで初めて、
人も愛せる。
それこそが、
宗教や、人種や、言葉や、
様々な違いを超えていく、
ひとつのきっかけ・・・
バッハ先生の旋律から
そんなことを思った
マタイ受難曲漬けの週末
今週末から、
サカダワです。
金曜日の新月の前に、
自分の心ともっと深く
会話してみたいですね
今日もステキな一日に